はじめての……

 少しでも背伸びをすると上部に頭をぶつけそうになる間口の狭い玄関を抜けると、まるで刺す様な冷気が剥き出しの肌に触れた。はぁ、と小さく息を吐くと視界が僅かに白く曇る。

 急激に寒くなったな、そう思いながら普段よりも大分重く感じるジュラルミンケースを持ち直し、海馬は一瞬開け放した玄関扉を閉ざすべきか否か迷い、けたたましく聞こえる足音に結局そのままにする事を選択すると、ゆっくりと段差のない階段を歩み降りた。そして、緩やかに振り返る。

 その視線の先に人影は見えないが、「遊戯!早くしなさい!」という母親の急かす声や、「分かったからあんまり大きな声を出さないでよ!!」とこれまた忙しない返答が慌ただしく飛び交っている。

 海馬が礼儀正しく朝の食卓に着いて振る舞われた朝食を物静かに食べている間も同じ様なやり取りが交わされていた事から、これがここの……武藤家の朝の風景なのだろう。

 自邸では余り……というか、全くお目にかかれないその光景を、海馬は表情にこそ出さなかったが内心面白く眺めていた。彼の真向かいに座って同じ様に黙々と朝食を食べていた武藤双六も、途中までは特に言葉を発しなかったが、最後は軽く肩を竦めて「まあ、家はいつもこんなもんじゃ」などと言いながら、食後の熱いお茶を啜っていた。

 「海馬くんもどうじゃ?」という勧めに大人しく従い、二人で大きな湯呑を上下する間もその喧騒は収まる事を知らなかった。

 ちなみに遊戯は同じ食卓に着く事は出来なかった。
 勿論スタートの時点で大幅に遅れていたのは言うまでも無い。
 

「海馬くん、待たせてごめんねっ!」
 

 海馬が外に出てからゆうに5分は経過した頃、漸く酷く慌てた様子の遊戯が玄関から飛び出してきた。その両手には通学鞄以外の荷物が山盛りで、それでどうやって歩くのだ貴様、とこちらが突っ込む前に「ごめんこれちょっと持って!」と二、三の袋を渡される。

「別に慌てなくても時間はあるのだから少し落ち着かんか」
「だってっ!……ああもうなんで僕ってこうなんだろう!」
「貴様が『こう』なのは今に始まった事ではないだろうが」
「う、酷い……そ、そりゃそうだけどさ。今日位はきちっとしたかったのに……!」
「見事な寝坊の上に大慌てだな」
「笑わないでよ!もー海馬くんも起こしてくれれば良かったんだよ!」
「起こしただろうが。二度寝したのは貴様だろう?丁寧に上かけまで剥いでやったのに全く起きんとはどういう寝汚さだ。モクバ以下だぞ」
「だって」
「だっては聞き飽きた」
「だって……昨日なかなか寝付けなかったんだもん!」

 はじめての夜だったし……。

 何故か顔を真っ赤にしてそう口籠もる相手の顔を、海馬は押し付けられた荷物を抱えながら、少々驚いた体で見返した。初めてだと?……何が初めてなのだ?そしてどうしてそこで赤くなる。思わず声に出して言いそうになってしまったその台詞を飲み込んで、彼は少々首を捻る。

 思い当たるものと言えば昨夜の事以外にないのだが、泊りがけは元よりセックスをした事など一度や二度じゃあるまいし、何がそんなに特別なのか分からない。尤も、海馬が遊戯の家に泊まったのは確かにこれが『はじめて』だった。故にこの朝の喧騒も初体験ではあるのだが……。

 結局の所、余り良く理解出来なかった彼は、ストレートに本人に訪ねてみた。

「……何が、初めてなのだ?」
「え?海馬くん、僕の家に泊ったの初めてでしょ」
「確かにそうだが。……それが何か?」
「何かって言うか……特別でしょ!」
「何がだ。良く分からん」
「彼氏とか彼女をさ、自分の家に泊めるって普通は特別な事なの!」
「……だから?」
「だ、だから、昨日はその、ちょっとドキドキしちゃって寝付けなくて、今日寝坊しちゃったって事!」
「なんだ、結局は言い訳か」
「言い訳じゃないよ。本当なんだってば!」
「まぁ何であれこの失態が帳消しになる訳ではない。いいからさっさと支度せんか」

 そう言って海馬は未だ遊戯が手に持っていた鞄をも取り上げて、既に厚布の塊となっている皺くちゃのコートを羽織る様に促した。それに遊戯は頬を膨らませつつ従って、見る間に彼の両手は軽くなる。それを見計らい預かった荷物を返してやると遊戯は短く礼をいい、何故かその一つを再び海馬に差し出した。なんだと問うより早く「それ、海馬くんの」と切り返される。

「……オレの?」
「ママが、海馬くんにって。お揃いのお弁当を作ってくれたみたい」
「は?」
「あ、後マフラー入ってるから使って。パパのだけど新品で使ってないからどうぞだって。今日寒いからさ、風邪ひいちゃうよ」
「………………」
「あ、嫌だった?」
「いや、そんな事はないが……」
「じゃあ、早くそれつけて行こう?そろそろ時間がヤバイよ」
「誰の所為だ」
「すみません、僕の所為です」

 大して悪びれた様子もなく遊戯がペコリと頭を下げるのを溜息を吐きつつ眺めた海馬は、朝食の時同様存外素直に手渡されたものを持ち、使えと言われたマフラーを身に付けた。少しだけナフタリンの匂いがする新品のバーバリー。柔らかな感触が優しく首元を包み込む。

「海馬くんってやっぱり大人の色似合うよねー」
「……それは褒めているのか?それとも嫌みか?」
「勿論褒めてるんだよ」
「フン」
「手も冷たいから手袋も欲しいね。持って来ようか?」
「別にいい。早く行くぞ」

 どこか妙に浮足立った遊戯が弾んだ声でそう言うのを鷹揚に受け止めて、海馬は遊戯が飛び出したまま開放されていた玄関扉を閉めるべく踵を返し、開き切ったそれに手を伸ばしたその時だった。外の様子が筒抜けで、なかなか出発しない自分達の様子が気になったのだろう。「遊戯!遅刻するわよ!」と声を上げながら、室内から顔を出したらしい遊戯の母親と鉢合わせた。

 瞬間互いに「あ」と小さな声を上げて、暫し見つめ合う。

「………………」

 そう言えば海馬はこの家に滞在中、彼女とは余り多くを話さなかった。他人の母親、と言うか母親という存在そのものに慣れない事もあるが、それ以上に彼女が自分の事をどう思っているのか分からなくて、下手な態度に出られなかったのだ。この関係を知られているのかすら分からない(ただし、来客用の寝具を用意されなかった上に、風呂に二回入っても詮索はされなかった)。故に、彼にしては珍しく大人しくしていたのだが……。

 妙な膠着状態が数秒続き、無駄に背筋が緊張する。時間も無い事だしここは何でもいいから適当な挨拶でもして早々に立ち去るべきかと海馬が思い始めた刹那、その緊張は彼女の一言によっていとも簡単に解消される事になる。

「何にもお構い出来なくてごめんなさいね、海馬くん。お弁当、遊戯のと一緒だから足りないかしら?あ、そのマフラーどうせ要らないものだから良ければそのまま使ってね?」

 満面の笑みと共にそんな優しい言葉をかけられて、海馬は酷く戸惑いつつもありがとうございます、と頭を下げた。その様子にさらに眦を下げた彼女は、弾んだ声で「またいつでも来て頂戴ね」と付け足した。それは先程の金切り声から想像がつかない程柔らかく心地のいい声だった。はい、と素直に頷く彼に彼女もまた満足気に応えると、すっかり忘れられた存在になっていた息子に漸く目を向けて、やはり優しい声でこう言った。
 

「二人とも、行ってらっしゃい」
 

 
「ママってば、息子を間違えてるんじゃないの?なにあれ!」
「まぁそう言うな。どの家もあんなものだろう」
「海馬くんの家は違うでしょ、モクバくん優先じゃん」
「当然だ」
「あーあ。なんか今日は幸先悪いなぁ。折角の初めてなのに!」
「まだ言うか」
「ずっと言うよ。一日言うからね」
「……では、初めてついでに手でも繋いでやろうか。それで機嫌を直せ」
「えっ?」
「今日は寒いからな」

 家から離れて数分後、未だしつこく今朝の事を蒸し返す遊戯に海馬は心底呆れて苦笑を洩らし、荷物を一纏めにして片手で持つと、空いた右手を顰め面をした眼下の恋人へと差し出した。ゲンキンな男の事だ、これで機嫌が直るだろう。海馬のその思惑は見事的中する事になる。

 そう言えば、こんな風に歩いて共に登校する事も初めてだ。

「ほんとに?じゃ、遠慮なく繋ぐよ!」
「貴様が遠慮などした事があったか?」
「……もー!海馬くん減らず口ばっかり!」
「貴様程ではないがな」

 少しだけあった距離を瞬く間にゼロにして、互いに機嫌よく今日という日の第一歩を踏み出した二人は、その日一日それなりに楽しく過ごしたのだ。
 

「毎日ずっとこんな風だったらいいのにな」
「贅沢言うな」
 

 沢山のはじめてと共に、幸せも増えて行く。